「……雨か」

　天津東湖城の境内で、天を見上げて呟く男が一人。

「雨、ですねえ」

　その傍らで、同じく天を見上げる人影がひとつ。

　天津最強の異名を取る烈将空煉。そしてその側仕である智将正宗。
　主上への拝謁を済ませ、館へ戻ろうとした矢先。
　彼らの前に降りしきるのは、大粒の雨。勢いもよく、城を取り巻く堀に満たされた水もその水量を増しているのが見て取れる。

「たかだか一刻だぞ……。なんでこんな大雨になってんだよ。」

「天候ばかりは神のみぞ知るところですからねぇ」

　忌々しそうに言う空煉とは対照的に、正宗はどこか愉しそうに笑っている。

「こんな事もあろうかと傘をお持ちしております。少々お待ちくださいませ」

　優雅に一礼をして、正宗は持参物を預けてた守衛兵の元へ歩いていく。
　どんなに変装を凝らそうとも、やはり後姿は一流家庭の女御のそれ。
　まったく、あれも真面目なヤツだよな。
　そんなことを思いながら、空煉は庇の真下になる階段に腰を下ろした。

　館を出る前は薄っすらと霧が立ち上る程度だったはずの雨の勢いは、強まる気配はないが弱まる気配もない。
　一人であれば構わず走って館に戻るが、正宗が一緒だとそうも言えなくなる。
　普段の衣装よりも若干小奇麗な格好をしている程度の自分と違って、拝謁の正装である能衣をきちんと纏ってはいるものの、その薄手の衣服は、濡れればその体型を如実に現してしまう。それは、正宗にとっての負い目であり、自身にとっての不快である。
　男として振舞い、戦となれば自分と並んで一騎当千の呼び声高い智将正宗が、実は猛将の一人娘　雅姫である、というのは、正宗の家族以外には自分達と主上他ごく一部しか知らない超極秘事項である。何より、愛おしい相手の体線など、間違っても他の男に見せられるものか。
　ここまで考えて、空煉は己の思考に顔が上気するのを感じた。
　正宗、と名乗る、常に傍にいてくれる彼の姫を己のモノとして早一年が経とうとしているが、どうにもこの感覚には慣れないようだ。

「主殿、お待たせいたしました」

　思考を絶つように響いた、今まで想っていた相手の涼しい声に、空煉は飛びのくように立ち上がる。

「お、おう。……てか、なんで傘一本なんだ？」

　そう。戻ってきた相手の手の中にあるのは、明らかに自分のものである、少々大きめの唐傘が一本。いつも相手が使っている、小ぶりな傘は見当たらなかった。

「はぁ、私の分も持ってきたはずだったのですが、守衛殿にも探していただいても見当たらず。そのために随分お待たせしてしまいました」

「いや、まぁ、待つのは構わないんだがな……」

　二人して明らかに困惑する図は、さぞ滑稽に映っただろう。
　しかし、本人達にとっては深刻な問題である。空煉だけが傘を使うなら、正宗は当然雨に濡れてその正体が世間に知れ渡ることになりかねない。かといって、一つの傘を二人で使うのは世間の噂的な意味で却下となる。

「……よし。お前その傘使え」

「え、それじゃ主殿は？」

「笠屋に寄って新しいの買えばいいだけだ。いい加減ボロも出てただろお前の傘」

「まぁ、そうです、けど……」

　もごもごと口ごもる姫を見ながら、烈将の目が、雨に打たれる一本の松に向けられていたことを知るのは、さてどれほどだっただろうか。

「俺一人ならこの程度の雨でもかまやしないからな。
　ほら、知恵方が待ってるんだろう？　早く帰ってやれ」

　にこりと笑って相手を見送る。これも、正宗と出会うまでの烈将であれば、ありえなかったことだ。
　大きな傘を担いだ相手が雨に消えていくのを確認すると、空煉の周囲の空気が冷気を帯びる。

「さて……出て来い、てめえら」

　後にその場に居合わせた守衛兵に問うと、「烈将の由来、この目に焼きついたり」と震えるほどであったという。

　すべては雨のみが知る、平和なりし頃のお噺。

[0回]

　傘が、雨をはじいている。
　明らかに私の体格に合っていない、大きな傘。
　だけど、とても安心する。

　望んでも、かなわない事は解っていたけれど。
　
「相傘、させていただけませんか」

　あの方の前で告げられたら。
　きっと苦笑して、そのまま帰らされただろうけれど。
　
　それでも。
　一緒に歩くくらいは、許されてもいいのではないかと。
　そう思ってしまうのは、“女”故に思うのだろうか。

「おかえりなさいませ、正宗様」

「ただいま。この傘、借り物だから丁寧に扱ってね」

「は。かしこまりました！」

　門兵に傘を預けて、屋内に入る。
　向かうは、屋敷の最奥。
　今日も、開け放たれている障子の陰になるところに座する。

「兄上、ただいま戻りました」

「おかえり、雅。入っておいで」

「はい、失礼いたします」

　呼ばれて室内に入れば、いつもと同じように穏やかな声がかかる。

「今日は災難だったね、濡れなかったかい？」

「はい、傘を用意して行きましたので」

「そうかそうか」

　穏やかな笑顔が、歪む。
　苦しそうな咳と、嫌な予感。
　荒い息。口から流れ出る、赤い血。

「あ、兄上！！」

「大丈夫、お前が心配することじゃないよ」

　絶え絶えの息の中、兄上は優しく笑っている。

「兄上、お体に障ります。横になっていて……」

「雅……すまない……」

「喋らないで……ゆっくりお休みになってください、兄上」

　何か言いたそうな兄上の言葉を切って、そっと布団に横たえる。
　兄上は、この数ヶ月で元々白かった顔色が更に白くなった。このように苦しむことも多いという。
　まるで、主殿と結ばれていくのと反比例するように悪くなっていく兄上の病状。

「雅……お前は、今幸せかい？」

　少し落ち着いた息で、兄上のつむぐ声は、いつもよりも真剣なそれだ。

「答えておくれ、雅」

「……はい。幸せ、です」

「そうか。それなら、いいんだ……」

　雨の音が、耳に痛い。

「守ってみせるよ、お前の幸せは、私が、必ず……」

　兄上の寝息と、ただただ痛いばかりの、雨の音が響く。



　静寂、とは言わない。

　入梅の雨が、地をたたく音がする。

「こんな夜半に訪問とは珍しいね。どうかしたのかい？」

「知恵方……」

「遠慮などしなくていいよ、行信殿」

　苦笑を向ける相手は、廊下で立ち尽くしているようだ。

「こんな時刻でも、私と話したいことがあるのだろう？」

「……知恵方、貴方は一体」

「私は久条時宗。それ以上も、それ以下もないよ」

　相手の動揺には気付かぬ振りをして。相手の言葉を待つ。

「私は、貴方の元で学べたことを、間違ったことではなかったとおもっています」

　ぽつり、と声が落ちる。

「また具合が良くなられましたら、改めて伺わせていただきます」

「うん、楽しみにしているよ」

　まったく。あの子は正直すぎる。
　だからこそ、あの子には非がないのだけど。

　気配が一つ去るのと入れ違うように気配が一つ。

「……これはまた珍しいお客様だね。近くにおいでよ。どうせ寝付けやしない」

「いいや、そんなお前さんに無理はさせたくねえ」

　密やかに聞こえる苦笑する声は、普段の彼らしくない、共通の親友の口調を真似たそれ。
　気遣ってくれているつもりなのだろうが、使い慣れていない口調に自分で戸惑っているのが丸分かりだ。

「ふふ、貴方も優しい方だね。忍方」

「さて、何のことか」

　声音の音域が微かに変わるが、気付かぬ振りをして笑う。

「全く、不思議なものだね。体が悪くなるにつれて、感覚が鋭くなっていくんだ。
　少しの気配でも感じられるようになったし、それが悪意であるか善意であるかも分かるようになった」

　闇の中、相手が呆れているらしい気配が空気を伝わってくる。

「それにしても、狸には参ったものだね。
　人の里を隠れ蓑にしたと思えば、更に厄介な術まで覚えてしまったようだ」

　伝わってくるのは、相手の緊張。

「知恵方……」

「僕が知らないとでも思っているのだろうかね？　それとも得意の狸寝入りだろうか。
　巧妙に流してくるものだから、余計性質が悪い」

　闇の中に苦笑を漏らす。

「本当に貴方は、不思議な方だな」

「少し喋りすぎたかな？」

「……闇は言葉を吸い込むのみなれば。
　今この場に、貴方の言葉を聴いたものはおりませぬ」

「ありがとう、優しき闇」

　相手の気配が消えるのが分かる。
　少々意地悪が過ぎてしまったかもしれないが、このくらいで怒るような相手でもない。
しかし、既に去った彼の言葉には、少々誤りがある。

「……狸を隠れ蓑にした妖よ、そこにいるんだろう？
　一つ勝負といこうじゃないか」

　もはや誰も聴いているはずのない闇に声を向ける。

　止みそうにない雨と、水が引き出す地の香り。
　そして、その地の香とは決して相容れない、香。

『弱りきった体で何ができる』

　どこからか、嗤う声が聞こえる。

「確かに、黒鱗の呪いは大したものだよ。お前の呪力もな。だが」

　周囲の気温が一気に下がるのがわかる。

「人間なめてんじゃねえぞ、妖怪」

　雨の音と、人外の笑い声が闇に響いている。